仕事が忙しく身も心も疲れ切ったときなどに、ハイドンの交響曲を聴く余裕感があるといいと思う。

フルーティーな日本酒のようにさらっとスッキリしていて、それでいて切れのいい喉越しの音楽を味わってみませんか。

 

文:野村和寿

 

ハイドン 交響曲第88番『V字』から第92番『オックスフォード』、

協奏交響曲(バイオリン、チェロ、オーボエ、ファゴット、管弦楽のための)を含む

 

サー・サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 2007年2月 

ベルリン・フィルの本拠地であるベルリン・フィルハーモニーで録音

 

レコード・レーベル ワーナー・クラシックス

レコード会社 ワーナー・クラシック・ジャパン

ハイレゾ音源提供 e-onkyo music

http://www.e-onkyo.com/music/album/wnr28727/

ファイル形式MQA Studio 44.1kHz/24bit

2,619円(税込価格)

◎実際の販売価格は変動することがあります。価格は税込価格(消費税10%)です。

 

この1ヶ月というもの、ハイドンを集中して聴いてきた。結論ハイドンは、やっぱりいい。中庸の美! どこかが過度に突出するわけでもなく、ひたすら、さらさらと流れる音楽。それがハイドンだと思う。

 

ハイドンはごく一部の曲を除き、ほとんど、そのメロディーを咄嗟に口ずさんだり思い浮かべたりできる曲が少ない。少しクラシック音楽を熱心に聴いたことがある方であれば、ベートーヴェン(1770−1827年)の交響曲第5番「運命」や第6番『田園』、シューベルト(1797−1828年)の交響曲第8番『未完成』は、咄嗟にその曲の「サビ」のところのメロディーが浮かんでくる。また、ハイドンと同時代のモーツァルト(1756−1791年)になればメロディーのまさに宝庫であり、枚挙に暇がない数々の音楽のように、メロディーが耳に残りすぐ浮かび口ずさむことができる。

 

すぐに口ずさむことが難しいのであれば、ハイドンはいったいどこがそんなに面白いのだろうか? それを解く鍵は意外なところにあった。ロンドンのシティ、ピカデリー・サーカスやソーホーのロンドン中華街にほど近いグレート・プルトニー・ストリートに「1791年ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809年)ここに住めり」という銘板が2014年、英国ハイドン協会によって設置された。

 

ハイドンは、生地オーストリアだけでなく、イギリス・ロンドンやフランス・パリでむしろ存命当時から人気が高かった。そして現在でもヨーロッパのクラシック音楽サイトbachtrack.com(バッハ・トラック・ドットコム)では、1年にヨーロッパの各地で開催された3万にも及ぶコンサートで演奏された作曲家のランキングを発表している。ベートーヴェン、モーツァルト、バッハに次いでハイドンは演奏のハイドンは上位第4位にランクされているほどだ。ちなみに、わが日本では、同じことを、日本オーケストラ連盟の調べでみると、2012年演奏回数作曲家ランキングでは、第26位にランクされているにすぎない。

 

 

 

何故、サー・サイモン・ラトル=ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、ハイドンの104曲以上もある交響曲の中でよりにもよって、この第88番から第92番を選んだのであろうか? 

 

第88番は「V字」、第92番は、「オックスフォード」というサブ・タイトルがついている。第88番の「V字」の由来は、ロンドンの出版社が楽譜を出版する際に、整理用番号のアルファベットの22番目つまり「V」に由来している。第88番は、昔から有名で、フルトヴェングラーや、クナッパーツブッシュをはじめ、古今東西の名指揮者たちによって、こぞって演奏会で取り上げられていて名演を残している。さらっとしている中に流れる音楽に身を任せるときに、不思議と聴いているうちにさらさらと自分が音楽を受け容れていき、身も心もリラックスすることができる音楽なのである。熱く心を焦がす音楽も素敵だが、こうしたハイドンの清々しさも実にいい。

 

第92番「オックスフォード」は、実際は1788から89年に作曲されたのだが、1791年7月に英国オックスフォード大学からハイドンが名誉博士号を贈られたことにちなんでいる。規模はそれまでにないくらい大きくなり、わくわく感とさらっと風の吹き抜けるような爽やかさ、さらには躍動感がみなぎっている。

 

「交響曲の父」フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732−1809年)は1761年、29歳のときに、ウィーンから60㌔のところにある、アイゼンシュタットに居城を構えるハンガリー西部の大貴族で、大の音楽好きの貴族エステルハージ家に、音楽を取り仕切る副楽長として召し抱えられた。以来、1790年までの約30年間エステルハージ家の音楽を取り仕切ることになった。

 

ウィーンから離れた、どちらかといえば音楽の主流から距離を置いた地方の田舎で、配下に自前のオーケストラ(『ハイドン復活』中野博詞著1995年春秋社によると、第1バイオリン、第2バイオリンがそれぞれ2から3、ビオラ1から2、チェロ1、コントラバス1,フルート1、オーボエ2、ファゴット1、ホルン2、時にはエステルハージ家に常駐していた軍楽隊からホルン2やティンパニ1を借りてくる。最も多い時で総勢25名)をもち、独自の生き方をする。つまりはウィーンの流行にとらわれることなく、あくまでも、ハイドン独自の創意工夫で、自分のオーケストラで、週1度の貴族のディナーでの演奏会で新曲を演奏することを中心に、活動していた。

 

毎週の新曲を作曲し続け演奏するということは、並大抵のことではないことは想像に難くない。毎回、工夫に工夫を重ねたことが、ハイドンの交響曲を記したスコア(楽譜)から見てとれる。バイオリンのソロだけでなく、あるときは、チェロのソロやフルートのソロ、そして低音楽器であまりソロ楽器にはならないコントラバスのソロが加えられている交響曲まである。

 

これはつまり、エステルハージの伯爵様が音楽好きだったので、オーケストラで演奏される楽器の名手たちをヨーロッパ各地からかき集め、次第に、ハイドンの率いるエステルハージ宮のオーケストラは、相当に腕の達者なメンバー揃い25人のメンバーだったことは想像に難くない。

 

30年とは相当長い期間である。そんなハイドンにも転機が訪れることになる。1790年エステルハージのニコラウス伯爵が亡くなる。これを契機に当時58歳だったハイドンはエステルハージ家の宮殿のあったアイゼンシュタットを離れることになる。(続く)